吉川法難

難波繁八
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天保の法難と呼ばれた幕府による不受不施派の摘発は天保9年7月には関東一帯、8月からは近畿一帯に手が及んでいました。
大阪でこの法難に遭った僧の中に若干16歳の雛僧である『日要』という僧がいました。
日要は他の僧から後事を託されてこの法難を逃れて備前に潜伏していました。
この情報を得た大阪奉行所の役人・林善次郎と部下11名はこの日要を取り立てるために備前へとやって来ます。
同時に日要と共に日諫という重要人物の僧も一緒に潜伏しているという情報も得ていた様です。

捜査の結果、日諫、日要の両僧は更に西の備中吉川村に潜伏しているという情報を得て、役人達は山陽道の宿場町であった真金板倉宿に本陣を置き、満を持して吉川村へと摘発にやって来るのでした。


一方、吉川村では天保6年頃から備前国津高郡金川出身の常兵衛という者が不受不施派の僧と一緒に吉川村を度々訪れる様になっていた様でした。
天保9年3月下旬に常兵衛が喜太郎という若者を連れて来て、吉川村へ3日程宿泊しました。
この喜太郎という若者こそ偽名を使っていた日要でした。
また6月下旬にも常兵衛と喜太郎が吉川村へ2日間、7月下旬にも2人で5日間程宿泊したとの事でした。
この時に繁八宅や政兵衛宅に宿泊したと考えられます。
また、この7月下旬に来た際に常兵衛は喜太郎を吉川村で暫く世話をして欲しいと鍋之丞に依頼します。
しかし、この依頼を断ると暫く吉川村に来る事はなかった様です。
この後に大阪にて法難に遭ったと思われます。

それから暫く後の10月19日の夕方に再び常兵衛が僧2人と共にやって来ます。
この僧2人は喜太郎(日要)と『本行』という20歳程の僧でした。この本行と言うのは重要人物であった日諫でした。
3人は政兵衛宅に一泊し、10月20日朝に萬五郎が人足となって作州・奥津まで道案内をして送り出していました。

これらの事が役人の耳に入り、捜査の手が吉川村へと及んだものと考えられます。

以上が吉川法難に至る経緯となります。


<<参考>>
書名:岡山県史 第八巻 近世Ⅲ 出版:岡山県

書名:吉川誌 出版:田中一雄

書名:不受不施派農民の抵抗 出版:安藤精一

書名:生きている日蓮宗不受不施派  出版:安原良克

by tokuzaemon2484 | 2014-10-05 00:00 | 難波一族 江戸 | Comments(0)

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