平家と難波

我が家には家系図の他に難波家は平家の落人の末裔であるという伝承が残っています。

壇ノ浦の戦いにて敗れた平家の家臣達は各地へ落ち延びましたが、備中にもかなりの数の落人がたどり着いた様です。
その中には嘗ての賀陽町エリアも含まれていました。
これらの土地は山間部で人の出入りが少なく潜伏するには絶好の環境でした。

後程改めて紹介させて頂きますが、そもそも賀陽町には平家の総大将である平清盛の供養塔があったり、各地で平家の落人の伝承が残っている土地となります。
また平家の侍大将であった難波経遠と同様に難波を称す家が異常に多いという事も忘れてはいけない事実です。
この地は難波一族の一大勢力地の一つであったものと思われます。
因みに臨済宗の開祖である栄西の母はこの地に住んでいた難波一族の娘だったそうで、栄西もこの地で誕生したとの事です。

これらの事からも旧賀陽町エリアは平家との繋がりが深い土地柄であった事が伺えます。

難波は吉備津彦神社の神職を勤めると同時に吉備津彦神社の周辺を支配していた備前の豪族でした。
当時この周辺は『吉備の穴海』と呼ばれる海でした。難波はこの海域を牛耳っており、莫大な財力を誇っていた様です。
平家はこの海域と財力を味方につけるべく難波と手を組み、戦力をより強固なものにしていこうとしたのではないでしょうか。

当時は平家と難波の関係は深いものがあった様です。

by tokuzaemon2484 | 2016-02-15 00:00 | 難波一族 平安~鎌倉 | Comments(0)

難波氏系譜考察


by 難波徳左衛門