吉備津彦神社 ~難波王藤内~

難波王藤内は吉備之国の田使首でしたが、近隣地域の長として各地の祭祀のすべてを取り仕切り、吉備信道の元祖であったとされています。

吉備津彦神社の祠官を難波氏が務めていたと前述しましたが、確実な資料が存在するのは諸説ありますが難波一族を先祖とするとされる難波王藤内(大森氏)が祠官を務めたという記録からの様です。
1190年代に大藤内隆盛が祠官を務めたのを皮切りに大森氏は代々吉備津彦神社の祠官を務めています。

南北朝時代には当主の大森彌八重直が播磨まで兵を率いて足利軍に加勢して尊氏より感状を賜っています。
応仁の乱のおりには、山名軍に属して備後に遠征して足利義政から松田丹波守を通じて感状を賜ります。
天文2年(1533年)には備前守護赤松氏配下の浦上村宗より、備前国全体の祭事を行う様にと命じられ、大森隆行の長男・隆基が責任者となっている様です。
永録5年(1562年)、備前金川の松田元堅からの日蓮宗への改宗を迫られますが、隆基がこれを拒否すると、攻められ火を放たれますが、隆基は帰還する元堅を待ち伏せして逆にこれを討ち取っています。

隆基の嫡男・幸秋もよく祭祀に励み、備中の三村親成、小早川隆景、安国寺恵瓊の為に祈祷を行ってそれぞれから感状を賜っています。

慶長2年(1597年)には幸秋の嫡男・隆久が社務職となり、宇喜多秀家の代官として備前・美作両国内に1450石の知行を与えられています。

その後も宇喜多家から多大な支援があった様で、400石の社領を寄進されています。
宇喜多家は関が原の戦いに西軍につき、敗戦に伴い没落しましたが、代わって入国した小早川秀秋からも300石の社領は安堵されています。

その後、池田輝政が入国してきますが、池田家からも厚い信仰を受けてその後も、明治まで大森家が社務職を継続しております。
なお、隆久以降の子孫は大守へと改姓しています。

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by tokuzaemon2484 | 2017-05-15 00:00 | 難波一族と民俗 | Comments(0)

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